2019/03/09

茶について

季節感を感じとり愛でる方法は色々あるが、中でも味覚には走り・旬・名残りと順序がある上に、走りと名残りの出会いものなんて、まさに醍醐味そのもの。





食材からも季節感を感じられる上に、それぞれの季節の食材が豊富にある日本は、幸せな環境だと最近つくづく思うようになった。





そして様々なことを美と結びつける日本の文化に、改めて敬意を感じる昨今。





今回のインド滞在中に毎日のグルジーとの会話の中で、ラビンドラナート・タゴールが日本に滞在した時に茶会に招かれ、茶の湯の世界観・精神性に触れて、日本人の美に対する献身的な姿勢に強く心打たれたという逸話が印象に残っている。






タゴール曰く日本人は世界中で最も美に対して忠実で、最も美を理解する民族であると評した。






確かに中国からもたらされた茶は、今や世界中に広まり様々なお茶が楽しまれているが、茶を美の世界まで引き上げたのは日本独自の文化と言っても過言ではない。






煎茶道の形だけは中国に逆輸出したが、世界観や精神性は伴っていない。





ラビンドラナート・タゴールと親交が深かった、岡倉天心は著者「茶の本」の中で、利休の最期の茶会の様子を紹介している。





利休は茶会の最後に客達に形見分けをし、茶を皆が飲んだ後で自らも茶を飲み、その器だけは人には渡さず「不幸の人のくちびるによって不浄になった器はけっして再び人間には使用させない。」と言ってその器をなげうって粉砕したと記している。





インドでは一度人が使用したチャイの素焼きの器は、全て不浄なものとしてなげうって粉砕する。





食事の皿はバナナの葉を使用し使い棄てる。






人が使用したものは、その人が幸か不幸かは関係なく全て不浄のものと考えるからだ。





そしてそれは自然に還る素材を使った究極の使い棄て文化だが、今ではステンレスの皿やプラスチックのコップなどの出現で事情が変わってきている。






チャイに使われる素焼きの器は脆く儚げで、それこそ寂の極致のような器で、持ち帰りたい衝動に駆られるが、持ち帰っても破れてしまったり、大抵使いものにはならない。





一時期はプラスチックのコップに押されて、あまり見かけなかった素焼きの器だが、最近はまた見直されているように思う。






この寂た素焼きの器で飲むチャイにも、私はささやかな美を感じている。