2019/04/29

30年前のこと

インドと日本を半年おきに往復していた頃のこと。





カルカッタ滞在中に昭和天皇崩御のニュースが入った。





当時はインターネットもSNSもない時代。





手紙だって下手をすれば日本から3カ月位かかった。





そんな中でニュースはかなり早い時点で知らされた。






それも見ず知らずの人に道で声をかけられ、お悔やみの言葉と共に教えられた。





当時カルカッタの街では華僑以外の中国人や韓国人は皆無で、黄色人種は日本人くらいのものだったので、彼らからは分かりやすかったと思う。





それから何人に声をかけられただろうか。





こちらが戸惑うほどに大勢からお悔やみの言葉をかけられた。





それだけでも私にとっては驚きの連続だったが、更に私が驚かされたのは、それから3日間街は喪に服しマーケットがクローズになったことだ。





あれは全インドの休日だったのだろうか?





とにかくカルカッタの街の商店は全て閉まり、銀行も休み喪に服した。





普段喧騒に満ち満ちたカルカッタの街は静まり返り、それはとても信じられない光景だった。





日本の様子は全く分からなかったが、もしかしたら日本よりも真摯に喪に服しているのではないかと思えるほどだった。




それはこれまでの私とインドとの37年間の付き合いの中で最も驚いたことで、平成が終わる今、鮮明に思い出された。







インドという国の計り知れない側面を見せつけられた記憶。








あれから30年。








今ではコルカタの路上で誰も私を外国人扱いしてくれない。

2019/04/26

外来・13回目と思っていたが、14回目だったキートルーダ投与。

今回はスケジュールの都合で、前回から数えて5週間目の外来・キートルーダ投与だった。





前回から胃腸炎の副作用もなくなっている。





やはりあのきつかった副作用は、腸閉塞の手術の影響もあったように思える。





そりゃあ3カ月間飲まず食わずで点滴で栄誉補給をして、再建手術で約20cm小腸を切り取ったのだから普通であるはずがない。





やっと身体が短くなった腸に対応出来たのかもしれない。





そう考えると人の身体の対応力に驚かされる。





あとはキートルーダが効き続けてくれることを祈るばかりだ。






勝手知った病院になってしまったが、レストランの位置はちょうど入院していた病室と同じ方向にある。






入院中見ていた懐かしい景色だ。






東京港に出入りする船を眺めたり、レインボーブリッジを走る車を眺めたり、それはそれで楽しめた。






足音でその日の担当の看護師さんを聞き分けるのも楽しかった。






サンドイッチマンや中川家のYouTubeを見て、痛みを必死で堪えながら笑ったり、レシピ動画や爆食い動画を見ているところを看護師さんに見られ、この病棟の中でここだけとってもシュールですと言われた思い出。








急ピッチで更地になっていく築地市場を眺めると、つい昨日のことのように感じていたことが、遠い時間の彼方に吸い込まれていくような気がする。

2019/04/20

野点

身体の回復具合をはかるため、溪を歩くことができるか川へ行ってみた。





舗装道路を普通に歩けるようになり、駅の階段も登れるようになってきたので、そろそろ渓流に挑んでみたくなった。






かつてのように何キロも川を釣り登るのは、まだまだ先の目標だが、とりあえず溪を歩くことができるのか試してみたかった。






注意深く様子を見ながらの遡行。






岩だらけの渓流は舗装道路の比ではない。





久しぶりの渓流の景色と、流れの中から毛鉤に掛かったアマゴの美しい魚体に癒されながら、疲れを忘れて遡行した。






思った以上に釣りを満喫した後で、歩くことが出来なかった時のことを想定して用意した、お茶セットで茶を点てて一服。






忙中の休日。






お茶を飲みながら一瞬と永遠が同一のものと感じられる時間を過ごした。

2019/04/18

5月2日

ゴールデン フラメンコ ウイークの第2弾は、4月28日のメンバーに加えてギターの池川寿一さんが参加する。





池川さんはウクレレでフラメンコを弾く動画を、定期的にYouTubeにアップしている。





やはりフラメンコはインド音楽に比べて、日本に定着した歴史が古いので、様々な逸材やユニークな活動をするタレントが多い。





連休が楽しみでならない。






この機会に是非音楽リゾートにお越しください!

4月28日

昨年から始めた新しい試みが、レギュラーとして定着しつつある。




フラメンコはインドのラジャスタンからヨーロッパに流れていったロマ(ジプシー)の人々によって始められ、インドの影響を受けてよく似ているとも言われているが、いざ取り組んでみると似て非なるものだった。






たしかにうわべだけをなぞってみるのも可能だが、去年の活動を通じてもっと踏み込んでみたいと思うようになった。






今回のジャマキート フラメンコはバイレ(ダンス)のジャマキートさん、山本海さんに加えて、カンテ(ボーカル)の須田隆久さんは薩摩琵琶をも弾きこなすマルチプレーヤー。






先日のリハーサルでは改めて琵琶は親戚だなと感じた。






ジャマキートさんの粋でとても楽しみな企画です。

2019/04/08

最初の曲

生まれて初めてのシタールをゲットした晩、コルカタの宿泊先のお寺で、メロディーを思い出しながら弾いてみた曲がある。





今から37年も前の話になってしまった。






他にもシタールで弾けそうなメロディーは沢山あったが、この曲は当時映画でも使われ、その強烈な印象で、私の中ではとてもキャッチーなメロディーだった。






もちろんRaagなどは知らなかったが、弾けそうなメロディーは他にも沢山あった中で、しばらくはこの曲ばかり弾いていた。







もちろん自分で弾きながらも、なんでこの曲なんだろうと思っていた。








それ以降の年月の中、何度かこの曲をライブで取り上げてみようと、トライしたことがあったが、いつも家での練習に終わっていた。







そんな曲がライブの候補曲として共演者から届いた。







感慨深い思いでメロディーを弾き、楽曲を分解・精査してみて、今まで気づくことが出来なかった楽曲の深みに触れている。








本番が実に楽しみだ。

2019/04/05

眠っていた

秋から完全停止状態だったカレーリーフの若木。






それでも時々水をあげると反応するので様子を見ていたが、最近どうやら動き始めたようだ。






昨年、東京の路地で越冬したカレーリーフの苗をいただいて、うちのベランダで料理に使いながら育て、越冬できるか見守っていた。







多分南国育ちのカレーリーフにとっては、逗子でも凍える冬だったと思う。






コリアンダーの葉(パクチー)と一緒で、カレーリーフも生の葉を使いたい。







冷凍や乾燥させたものも買えるが、やはり香りが違う。







ドネパタ(パクチーのベンガルでの呼び名)はよくインドで笑い話にするが、それは日本とあまりにも値段の差が激しいからだ。







スーパーで売られているドネパタの値段の話をすると、たいていのベンガル人はこの世の最後の様な表情になる。

2019/04/04

麻婆豆腐

横浜中華街に帰化した友人によると、麻婆豆腐には店の数、調理人の数だけのレシピが存在するそうだ。





弾く者の数だけアプローチが存在する、北インドのRaag音楽に似ている。





麻婆豆腐の中にはレシピが定番化された、正宗麻婆豆腐や陳麻婆豆腐のような有名レシピも存在する。





あとは市販の麻婆豆腐の素を使ったり、レトルトのソース。





たしかに麻婆豆腐は豆板醬の種類や、唐辛子のバリエーションを考えただけでも、大変な種類になる。





激辛ブームのは別として、南米系の唐辛子を使った美味しいのもあるし。





生の青唐辛子を使った白麻婆豆腐もなかなかの絶品。





グルバイに訊いてみたら四川料理はインドでも人気だが、豆腐が一般的でないので麻婆豆腐は日本ほどの人気メニューではないようだ。





コルカタでもかつて中華街(チナバジャール)で気軽に豆腐料理も食べられたが、最近は行っていないのでどうなっているのだろう?





当時のケロシンストーブの中では特注サイズの大きさと、眼を見張る火力を巧みにあやつって作られた、豆腐の炒め物は絶品だった。











先日中華街で食べた麻婆豆腐フェアの白麻婆豆腐の辛みは、強めの一味唐辛子だった。





意外で楽しかった。

2019/04/03

Raagの分類

北インドのRaag音楽は、それらを取り巻く環境の、大きな変化を経ながら今日に至っている。





そのような中で良いものは貪欲に取り入れ、合理的にそれらを吸収していき、そしてそれらの影響は今でも残っている。





Raagの分類では今まで様々なシステムが考え出されたが、多くの変遷を繰り返してきた中、バトカンデ博士によって提唱された、Thaat(タート)のシステムによるRaagの分類法が現在の基準になっている。







タートとは10種類のRaag・音階を基本型として、Raagを分類しようとする考え方で、数少ない例外を除けばRaagはいずれかのThaatにあてはまる。







基準は定まっているものの、今まで巻き込み、巻き込まれた沢山の要素がある為に、この音楽には多くの可能性がある反面、この音楽の解説には膨大な脚註が必要になってくる。





しかし反面その実体は非常にシンプルかつ明瞭で、音の楽しみ方の要素に満ち溢れている。






Raagは理性と情緒、計算と詩情の間の絶妙なバランス感覚を備えた音楽家によって、命が吹き込まれる。

2019/04/01

情緒的なこと

Raagを聴くことによって心に喚起される情感をRasaと言って、それぞれのRaagはRasaの情感のいずれかを持っていると考えられている。





Raagの音階の数学的なアプローチもさることながら、このように観念的な要素であるRasaが、音楽の中に共存していることはとても興味深い。





また演奏されるべき時間帯とRaagとの関連性を、言葉を使って仕組みや法則を説明するのは困難だが、一旦そうした感覚は身についてしまうと、時間帯の異なるRaagを聴くと、違和感を感じるようになる。






また、情感が喚起されると言っても、Raagは決して標題性を持って演奏されるわけではない。





むしろRaagは絶対音楽に分類される音楽。







そしてRaag音楽は決して神秘の音楽でもなければ、数学的面白さだけを追求し目指している音楽でもない。








Raagは音楽的な面から見たら音階・旋法だが、時間帯やRasaなどのスパイスが加わえられることで、より豊かで詩的で豊潤な芸術へと押し上げられている。