昨年も楽しかったこと、美味しかった食べ物、辛かったこと、個人的には人生初骨折など色々あったが何よりも印象に残り考えさせられたことがある。
それはドイツで出会ったこの碑だった。
この石畳の中に作られたこの金属の碑は、殺されたユダヤ人一人に対して一つ作られようとしているらしい。
それは民間レベルで各々の寄付によって作られたということ。
そしてこの碑は周りの石畳よりもほんの少し高くなっている。
何故ならそこにつまづくことによって、その碑に目が留まり亡くなったユダヤ人の名前を見ると共に自らを顧みるために自ら作られたもの。
そしてその寄付をした者はその碑を常に綺麗に磨く義務を負っているそうだ。
ユダヤ人大虐殺があったか無かったかを論じる以前に、自国民によって犬死にさせられた人間が居たということに対する思いで始められた運動だということ。
それは大虐殺であったか小虐殺であったかの事実認識のレベルを越え、人が人を殺すというあまりにもクレイジーな事実に対する人間として素直な感情から派生したものに感じられた。
人が人を殺すという愚かな行為が無くなる日が来ることが人類にとっての小さな一歩であり、現実世界では巨大な壁として立ちはだかっている事実なのが悲しい。
人間が民族という意識を持ち始めたことが近代の悲劇なのかもしれない。
それはドイツで出会ったこの碑だった。
この石畳の中に作られたこの金属の碑は、殺されたユダヤ人一人に対して一つ作られようとしているらしい。
それは民間レベルで各々の寄付によって作られたということ。
そしてこの碑は周りの石畳よりもほんの少し高くなっている。
何故ならそこにつまづくことによって、その碑に目が留まり亡くなったユダヤ人の名前を見ると共に自らを顧みるために自ら作られたもの。
そしてその寄付をした者はその碑を常に綺麗に磨く義務を負っているそうだ。
ユダヤ人大虐殺があったか無かったかを論じる以前に、自国民によって犬死にさせられた人間が居たということに対する思いで始められた運動だということ。
それは大虐殺であったか小虐殺であったかの事実認識のレベルを越え、人が人を殺すというあまりにもクレイジーな事実に対する人間として素直な感情から派生したものに感じられた。
人が人を殺すという愚かな行為が無くなる日が来ることが人類にとっての小さな一歩であり、現実世界では巨大な壁として立ちはだかっている事実なのが悲しい。
人間が民族という意識を持ち始めたことが近代の悲劇なのかもしれない。