残り時間は6カ月
ツアー中に病院へ行き検査し出た結果だった。
それは治療をしてもというニュアンスだったが、そうした重大な事実の感慨にふける暇もなく、それから短い間に多くの判断が迫られた。
まずは治療するのか?しないのか?
もし治療する場合 それは
標準治療なのか?
先端治療なのか?
民間伝承治療なのか?
東洋医学なのか?
緩和ケアという選択肢?
調べていくとキリがない。
予定していたライブスケジュールはどうするのか?
CT撮影から結果を聞くまでの間にいろいろなことが想起されたが、ツアー中にいろいろ考えていたので、とりあえず最低限の考えはまとまっていた。
それに首の腫れがひかないと分かった時点で、自分でも尋常ではないと思っていたので、それなりに時間をかけて覚悟も出来ていた。
しかし、その時はあと半年しか生きられないという程の症状は感じていなかった。
ただ自分が病気と知るまでの私は、最も希望的な観測をもとに行動していたので、体調不良は更年期障害のせいだと思い込んでいた。
しかし病気と知らされ余命を知らされてからは、私は何事も絶望的観測をもとに判断するように変わっていった。
自分にはもう半年(180日)しか時間がないと思ってからは、その絶望的観測をしながらも、様々な事態を笑って受け入れられない限り、残りの半年が自分らしくいられないと思ったからだ。
それよりも死という自分最大のイベントを、しっかり受け止め楽しもうと考えた。
死の際にいったい何が起こるのか?
そしてとにかく残された時間は体力の続く限りめいっぱい楽しむことにしようとも思った。
さて告知の場面に戻るが、いろいろシュミレーションしていたとはいえ、現実の治療についてテキパキと決めなくてはならなかった。
まずは治療することを選択し、標準治療を選んだ。
それに治療しながら解ってくることもあるかと思い、すぐに標準治療を始めることにした。
以前肺癌を患い治療し寛解した叔母がいて、その叔母が通っていたのが国立がんセンター中央病院だったので、医師に紹介状を書いてもらった。
ライブスケジュールはキャンセルすることにした。
それまで自分の都合でライブをキャンセルしたことがなかったことと、キャンセルの理由をお知らせしなければならないことで悩んだが、一応治療に専念する方向で落ち着いた。
後から考えれば年内一杯は出来たんじゃないかなどと思ったが、初めての経験なので予想が出来なかった。
がんセンターには出勤前に病院に寄って放射線治療を受けてから仕事へ行くような猛者も大勢居たので、自分が軟弱に思えた。
最初に受けた10日間の放射線治療の間は、目に見えた体調変化は感じられなかった。
最初の1カ月(30日)は、もしかして自分は例外で、放射線治療が劇的に効いているのではと、性懲りもなく希望的な勘違いをしたくなるほど自覚症状は現れなかった。
しかしPet CTにはよく反応して、がん細胞は首・胸・お腹のリンパに集まっており、私の淡い期待は脆くも崩れ去った。
年が明けて2カ月目に入ると背中が痛むようになり、それからすぐに仰向けに寝ることが出来なくなった。
この頃は友人などからたくさん寄せられた情報から、自分にも出来そうな民間療法や伝承療法にも取り組んでいた。
痛みは病巣そのものが痛むという感じではなく、病巣の回りが張って強い鈍痛がする感じだ。
張って痛む感じは肩こりの痛みにも近いが、迷いがないと言うか確信的な痛みだった。
3カ月目になってくると急激に病状は悪化してCRPが上がり、14日間の放射線治療に自宅から通うだけの体力はなくなっていた。
それは放射線治療によって、がん細胞が刺激されて活動が活発なったか?治療によって体力を奪われたのか?と思うような変化だった。
CRPは血液検査でわかる炎症反応と言われる値で、基準値を上回ると疲労感が増していくき、他の値に比べて自覚しやすい。
この頃は様々な情報から抗がん剤治療への疑問を感じたり、兄弟弟子が抗がん剤投与からあっという間に亡くなったりしていたので、化学療法は避けたいと主治医にリクエストしていた。
また同時に治療しないという選択肢はなかったのかと改めて考えてもいた。
しかし治療しても治療しなくても、同じようにつらいだろうからと治療は続けた。
抗がん剤は身体への負担ばかりで効かない、という情報はネット上でもよく読んでいたが、自分自身でそれを比べることが出来ないので、結局選択肢は治療を試みるのか?試みないのか?ということだった。
ただ化学療法の可否に関わらず、余命6カ月という医師の見立てはかなり正確だと感じ、この時点で自己診断では6カ月後の5月までは持たないだろうと実感していた。
体力がみるみる失われていくのはとても悲観的なことだが、実際に身体の言っていることを聞くのに必死で、悲観している余裕はなかった。
ただ受け入れて出来うる最大限のことをする。
そしてなんでもいいから何か笑えることを探す。
普通は尊い
通院を始めた時は病院まで新橋駅から歩いて通っていたのに、わずか80日を過ぎた頃には、10メートル置きに休み、常に座って休める場所を探しながら歩くようになっていた。
この頃は自分が消えた後で無価値になるものが残らないよう、断捨離したり片付けたりするのも激しい疲労が伴うようになっていた。
2回目の放射線治療は病院近くのホテルに泊まったが、数百メートルの距離を1時間近くかけて歩いていたので、もう少し離れたホテルにしてタクシーで通えたら楽かもしれないと思う日々だった。
嚥下が困難になってきてからは、暖かい麺類が唯一食べやすいものだった。
多分前傾して食べる姿勢が嚥下しやすさにつながっていたのだと思う。
あとは雑穀のシリアルバーのようなものがかろうじて食べられた。
誤嚥性肺炎になるとあっけないことになると聞いていたので、飲み物も注意深く飲むようになっていた。
2回目の放射線治療の後半は色々な意味で限界を感じていたのと、放射線科の先生からも化学療法を強く勧められ、放射線治療が終わったところで主治医に抗がん剤の投与をお願いした。
この時点で残り時間は半分になっているはずだった。
主治医に抗がん剤投与について訊くと、2種類候補があってその一つが前の週に認可になったばかりの、キートルーダという薬だった。
最初の外来で採った組織の遺伝子を調べて適合すれば使えるということだった。
2種類の抗がん剤の患者向け冊子を持ち帰って、それぞれの注意事項や副作用についての説明を読みながら、断捨離しきれそうもないもののことを考えていた。
オプジーボのことは見聞きしており、主治医からキートルーダも同じタイプの抗がん剤であることを聞き、もし使えれば助かるかもしれないという気持ちにもなれた。
しかしこの時期にはかなり弱ってしまっていたので、実際に失われた体力を取り戻せるイメージは全く沸かなかった。
問題は副作用に耐えうるかどうか?
ただ自分の残り時間に、新しい治療を試せる最後のチャンスとも感じていた。
検査の結果キートルーダが適合し、告知から109日目の3月14日が第1回目の投与の日になった。