そもそもインドの楽器の中でシタールが最も有名になったのは
パンディットジーの功績と言っても過言ではない。
Ravi Shankar (Robindra Shankar Chowdhury)
1920年4月7日 弁護士で学者、政治家だった
父 Shyam Shankar Chowdhury の末息子としてベナレスで生まれた。
職分制度社会のインドで音楽がその家系で受け継がれている中で、
音楽家とは違う家系から音楽家になり
なおかつインド政府から1999年 Bharat Ratna(インドの宝石)
人間国宝を授与された音楽家だった。
パンディットジーを音楽の道に導いたのは、
舞踊家として成功していた兄 Uday Shankarだった。
Uday Shankar はかつて寺院や宮廷などの閉鎖的環境でのみ踊られていたダンスを、
舞台芸術として確立させた舞踊家でインド国内のみならず、
海外でも人気を博した高名な舞踊家だった。
8才の時に兄の舞踊団に同行するようになり
パンディットジーは次第にシタールに強く惹かれていく。
パンディットジーは舞踊団のシタール奏者の師で、
当時絶大な人気シタール奏者だった Ustad Enayat Khan に弟子入りを望むが、
兄は Ustad Allauddin Khan のもとにパンディットジーを弟子入りさせる。
超スパルタ教育で知られた Ustad Allauddin Khan のもとでの修行を経て、
パンディットジーの輝かしい音楽経歴は大輪の花となり実を結んでいった。
パンディットジーはRagへの深い洞察を基に実にRagに忠実な演奏をされた。
描き出されるRagの情感は的確でそのプロセスは理知的でとても優雅。
パンディットジーというとその華麗さばかりが特筆されているが、
あれほど音楽にたいして謙虚なアプローチをする音楽家は他に類を見ない。
そのようなパンディットジーが音楽で多くの試みを行ってきた中で、
最も革新的なことはタブラ奏者に脚光を浴びさせたことだった。
それまではあくまで伴奏者の立場だったタブラ奏者に
主奏者と交互にソロをするチャンスを与え、
相乗的に音楽を高めていくという
今日当然のように行われている演奏スタイルを確立したのはパンディットジーだった。
西欧の聴衆を演奏によってあれほどまで熱狂させることが出来たのは、
Ustad Alha Rakha とのコンビネーションを突き詰めていった当然の結果と言える。
1988年 パンディットジーの日本ツアー大阪厚生年金会館での最終日、
主催者からバックステージを手伝って欲しいと依頼されたときは是非もなかった。
私に与えられた仕事はパンディットジーの楽屋係だった。
しかしそんな大役が私一人に務まるのか?
今でも私の英語は酷いものだが当時はもっと酷かったので、
色々指示されたときに対応できるか不安の方がはるかに大きかった中、
会場でパンディットジーをお迎えした。
緊張しながら最初にお茶とフルーツを楽屋に持って行くとパンディットジーは不在だった。
開演までパンディットジーは楽屋で精神集中していると聞いていたので
拍子抜けしつつホッとしたのは言うまでもない。
楽屋には誰もおらずパンディットジーのシタールが鎮座していた。
Nodhu Murik 製作のNo.4。
今ならば電話を取りだしてパチリと写真に収めてしまったと思うが、
当時のことなので穴が空くほどシタールを見た。
シタールはプージャを済ませたあとで傍らには線香も焚かれていた。
その間パンディットジーは千秋楽だったので
スタッフルームを訪れ労をねぎらわれていたというのは後で聞いた。
勿論それにはスタッフルームの全員が驚かされたそうだ。
お茶が冷めてしまったので入れなおして楽屋に持っていくと
今度はパンディットジーはリラックスされていた。
お茶をサーブして簡単に自己紹介すると
Ajay先生とはMaihar以来の親友だと仰り、真面目に練習するようにと仰られた。
短い最初の会話の間、私は一方的に緊張し息をした記憶がない。
公演の間、そして翌日ホテルからのお見送りまでは
今思えば様々な勉強の場だった。
サウンドチェックから本番が終わるまで出来うる限りのお手伝いをしたが、
今思えば気づくべき事にも気づけず何のお役にも立てなかったと思う。
それどころか逆にパンディットジーがされるお気遣いに感銘をうけるばかりで、
何よりも人々を包み込む巨大なオーラを間近にし
実に幸福な時間をプレゼントされた記憶しか残っていない。
同じ時代に生まれることができたことを改めて喜んでいます。
心よりご冥福をお祈りいたします。